二度目、ピアノの軽やかな音で起きた。
曲は、何度か聴いたことのあるものだった。
僕の学校でも、毎朝電子音になって校内に流れる。
「主よ、人の望みの喜びよ」、だったかな。
特に、好きでも嫌いでもなかった。
クラシックの場合、大抵がそうだ。
放課後も、音楽室からよく聴こえていた。
どうやら弾き慣れているようで、弾かれた音は次の音を紡いでは消え、を繰り返す。
最初は音楽の高飛車な赤いハイヒール女が弾いているのだと思った。
ただ、あまりにもそれらしいクセがなかった。
だから僕は、ずっと、それこそ入学当初から疑問に思っていたのだ。
グラウンドが騒がしくなり、教室のオルガンを取り合いする女子を横目に、僕は教室を出た。
階段をひとつのぼり、人通りのない4階へと出る。
一歩踏み出すごとに上履きのゴムが床と擦りあって鳴る。
すこし廊下を歩くと、ピアノの音はやはり、廊下の一番奥の音楽室から流れているようだった。
僕は、後ろのドアの少し手前で歩みを止める。
まだ僕の存在にピアノの音は気付いていないようで、少しも躊躇わず歌い、鳴り止まない。
日に照らされて少し赤茶色に染まった長いストレートの女が弾いていた。
名前は、もう随分と前から知っていた。
それから僕は彼女により一層惹かれた。
それよりもずっと前から、の方が正しいのかもしれないけれど。
出席番号十二番の、栗田硝子。
病弱で学校を休みがち。
というのは、表向きの理由らしかった。
僕は、見た。
平日の昼間に、喪服のように全身真っ黒い服を着て、栗田は何食わぬ顔で改札をくぐりぬけた。
その足取りはとても軽やかで、雑踏の中まるで彼女はワルツを踊っているようだったのも覚えている。
実際その時の栗田といったら黒い塊がうごめいているかのようで気色の悪いものだったろう。
大勢の人がその場所にそぐわぬ異様さに振り向き目を見張り、同時に半分が栗田の整った顔を拝む。
僕の目には、それが果てしなく神秘的で、魅力的で、艶めいて映った。
栗田の席は、僕の、目の前だった。
猫背気味の僕がすこし姿勢をよくするだけで、彼女の白い腕や手首が見える。
とはいっても真夏でも頑として長袖を着ている(去年も一年間長袖で耐え抜いていた)栗田の腕は、
ほとんどコブシから先しか見えないが。
いつも栗田は、2限間目までに決まって体調が悪くなった。
それは朝のHR中でも場所も時間も問わずに、である。
担任の、例のハイヒール女は、わざわざ教卓まで出歩いてやったのよ、という顔をして
体調不良を訴える栗田を見るとすぐさま、それもあからさまに眉をぴくりと吊り上げ、でも笑顔で、
――保健室にいってらっしゃい。具合がすこぶる悪いようなら、そのまま帰っていいからね。
と、いかにも努めて落ち着いた風を出しましたって声で、目の前で見上げてる生徒をうながす。
見計らったように栗田も、努めて笑いを作りましたって顔で頭を下げ、さっさと教室を出て行った。
それまでも全て計画通りというような顔をしていた僕も、ドアが閉まるのと同時に立ち上がった。
僕は保健委員だったから、教室を出る理由なんて簡単だった。
――栗田さんが一人じゃ心配ですし、僕、保健室につれていきますね。
ハイヒール女は僕が喋る口を持っていたということに今気付いたように少し驚いて頷き、視線を戻す。
間髪いれずに教科書を読み出したので、居眠りしていた奴、隠れてゲームボーイしてた奴は順応し、
だらだらとずるずると、みんなが融けたアイスのように授業に入っていく。
僕は何を書くわけでもなく握っていたシャーペンを筆箱に投げ込んでチャックを閉め、それから、
なるべく足音を立てないように教室のうしろの方のドアを開けて廊下へでた。
ムッとした熱気がこもった教室よりかは幾分空気の通った廊下には、誰もいない。
あちらこちらで教師が黒板にチョークを走らせる音とか、教科書を無駄に大きな声で説明する音に、
生徒たちがカツカツとシャーペン走らせ机を叩いて、返事をしている。
後ろ手でドアをゆっくりと閉めると、右と左を確認する。
すでに栗田はいない。
風のように颯爽と歩く栗田の歩幅は、女子としてはかなり広いから当然だ。
僕は少し急ぎ足で、早足で、右へと足を踏み出した。
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