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≪長編小説≫

灰色庭園ハイイロテイエン
0:プロローグ
1:少女の空
2:存在定義
3:誰かの声
4:消した記憶
5:最上階-鐘
6:鐘と夢
7:時と音と声
8:メゾ・ピアノ
9:嵐の翌朝
10:リアリティ
11:傾いた眼
12:横断携帯
...

  # 第十話 『リアリティ』
アパートの二階から見えるものは、グレイの川、土手、犬、垣根、黒い道路、公園、屋根。
「…タイクツ、だ。」
いい加減、言い飽きた科白を白い息に混ぜて、水で湿った赤黒いペンキの剥げた階段を
泥で茶色くなり、穴の幾つか開いたスニーカーでキュキュッと鳴らして駆け降りる。

途端にぴゅう、と北風に吹かれて凍える。両膝の部分が擦り切れて破れた水色のジーンズに
冷えた両手をつっこみ、濡れたコンクリートを歩く。
目の前には土手へ上がる石階段と、止マレの白が眩しい道路と、「大弁」と誤字で落書きされた
金貸しの広告が貼りつく傾いた電柱しかない。

その頼りない柱から伸びる、細っこい黒糸に、鴉が一羽とまっていた。
空の淡いパステルカラーにも染まらず、そのくせ黒塗りのパレットには空を映して。
彼、あるいは彼女の目先にはハエが集っている菓子パンの残骸と、
穴のほげた赤のレザーのソファしかない。

ガアッ、と太い声が案外近くから聞こえて、僕は驚いて顔を上げる。
そしてその黒い塊をよくよく観察してみると、羽が所々抜け落ちていて、
その間から地肌が露出して黒と黒の狭間にはワイン色の血痕が滲んでいた。
僕はしばらくゴミ捨て場の前に突っ立って、その鴉の黒いダイヤのような沢山の色を混ぜすぎた
油の模様のビーダマのような、そんな二つの瞳と、にらめっこをしていた。

ふと、ジーンズのポケットに埋まった右手に、冷ややかな感触を感じた。
趣味の悪い、銀ぴかシルバーの腕時計。
去年亡くなった祖母が、誕生日プレゼントにと13歳の時にわざわざラッピングまでして、
更に趣味のわるい蛍光色の運動靴と一緒に宅急便で送ってくれた。
その数ヵ月後、祖母は自宅で突然発作を起こし、脳卒中で亡くなった。
それから1年程経ち、受験戦争も終わりを告げる頃、3年1組みんなで卒業旅行に行くことになった。
経費などの関係もあって、中学生だった僕らは、中華街などしか思い浮かばず、
結局いくつか候補を挙げて、その中の多数決で修学旅行先が決まった。
行き先は、こっちへ祖母が観光で来た時に案内してあげた、東京ディズニーランドだった。
卒業旅行の前日、僕は祖母のことを思い出してなかなか行く気になれず当日まで迷った挙句に
結局サボり決定だった。
とくべつ、祖母に対する思いがあったわけでもなく、単に怠惰に嫌だっただけだ。
ただ、それだけ。
理由なんて無かった。
10歳の誕生日でうきうきして出かけていったことも、祖母との思い出も、
今では全部が全部を薄めているように思えた。
その全部が理由に思えた。着ぐるみの黒ネズミを見れば暑そうだなあとか、
絶叫アトラクションという肩書きを見れば
本場アメリカのローラーコースターに比べればまだまだ可愛いものだと皮肉を吐いた。
夢を与えるはずの国が、いつのまにか夢を終わらせて醒ませるための現実に変わっていた。
寧ろ変わったのは僕の方で、夢の国が元に戻っただけだったのかもしれない。

気が付くと、電線にとまっていた鴉はもう何処かへ飛び立っていた。
朝霧はもう薄れ、だんだんと空気にぬくもりを感じるくらいになった。
もう、かなり時間が経ってしまったようだ。
僕はキュッとずぶ濡れのスニーカーを鳴らし踵を返すと急ぎ足でアパートに帰った。


まだ、女は起きていない。
しんと静まり返った暗い部屋で、ヒーターのスイッチを入れ、
闇の黒よりももっと深い黒塗りのピアノの上に置いてある赤褐色のメトロノームの螺子を巻き、
銀のおもりを「♪=80」に合わせて止めがねを外す。
振り返ってCD棚の前にかがんでCD-Rの束を取り出し、裏面が手垢で汚れたCDを何枚か抜いて
CDラジカセのフタを開けてインディーズの洋楽ロックバンドを大ボリュームでかける。
ついでにREPEATボタンを押す。しばらく待つとラジカセがCDをがりがりと噛む音がして、
そして鼓膜が破れんばかりのパンクロックが流れ始める。
僕はそれを心地よく聴きながら歌い、歩きながら足でリズムを取り、ピアノの前に戻り、
あまりにも不似合いなC.Debussyのアラベスク第一章を弾き始める。
あまりに激しくキイを叩くので、ピアノ線が千切れんばかりに高音で鳴く。

そうして雑音がようやっと静寂を潰し殺したころ、のそのそと女が起きてきた。
長くて細い漆黒の髪はぐしゃぐしゃに乱されて絡まり、朝の日光に透かされて赤く見える。
それとほぼ同じ健康的な色をしている整いすぎた真っ赤な唇を大きく開けて、大きな欠伸をする。
そして長い睫毛を瞬かせて、フランス人形のようにパチリと瞼を開く。
女は僕が先に起きているのに気が付くと、幼児のように白い八重歯を覗かせて微笑み、
「おはよ」
まったくの眠気が払われた低い声で言った。
僕は微笑み返し、そして台所を指差して、
「おはよう。パンは、そこにあるから」
「うん」
女は台所のパンを無造作に掴むと屈みこみ、そして突然立ちあがる。
「ねえ、身体がダルい理由がわかったの。」
にんまりと八重歯を覗かせて笑うと、血で染まった下着を、僕の足元に投げてよこした。
「ああ…そう」
興味なく答えてまたピアノに向き合うと、女は少し怒ったようにスカートの裾をこぶしで掴んだ。
僕はため息をそっと吐いて空気を吸うと、生ゴミが腐ったような、
それか洗い忘れた弁当箱のような臭さが一度に肺に送り込まれて、思わずウッと声に出す。
咄嗟にまた空気を吸い込まないように手で口を押さえる。
「これ、床、汚れるから。」
言いながら、人差し指と親指で、死んだドブネズミでもつまむように生ぬるく湿ったそれを拾い上げ、
つかつかと女の前を通過し、半開きになった洗面所のドアを足でこじ開け風呂場の湯船に投げた。
投げ捨てた。
再びムッとする空気を吸い込んだ僕は、眉をしかめながら女に向き直って言う。
「シャワー、入れば。臭いし」
「うん」
「じゃ、僕はもう、行くから」
「どこに?」
「ガッコじゃん」
「うん」
「じゃ、ね」
「うん」
「………」
首振り人形みたいに「ウン。」と言いながらカクカクと音がしそうなくらい首を上下する女に、
もう一度上手に笑顔をつくって微笑み、本日二度目の外へ出た。







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